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2014年04月09日

福島市で放射能問題に取り組み保護者らを支援する団体「青いそら」の佐藤幸子さんが娘さんのスピーチを発信

福島市で放射能問題に取り組み保護者らを支援する団体「青いそら」の佐藤幸子さんが娘さんのスピーチを発信しました。
とても素晴らしいスピーチです。福島で起きてることを語ってくれてます。放射能と移住など思い悩んだ末の結論も含めてストレートに語ってくれてます。
若い美奈さんが「子ども達を守ろう、周りがどうであれ、自分の意見を貫こう。」と発信してる姿に心を打たれました。
子ども達も苦悩して分断されてる現実があるのです。何が原発輸出なのか。何が再稼働なのか!


美菜、初めての集会スピーチ


3.9さよなら原発三重パレードでスピーチさせていただいた美菜は、
その内容を多くの人に伝えたいと話してくれました。
シェアよろしくお願いします。

やまなみ農場という農家に生まれたのは16年前のことです。
畑を耕さない農法で、化学肥料や農薬も一切使わないものが「自然農」と言います。
虫や草を敵とせず、自然と共存できる唯一の農法です。
自然農をしていた私の家では、味噌、醤油、豆腐、納豆、こんにゃく等ほとんどの食材が自家製のものです。とてもおいしいんですよ。私も何度も手伝わせてもらいました。
そして、やまなみ農場で自慢できるものの一つが手造りの我が家です。
7年かけて父と兄二人が手伝って造った、と聞いています。家を壊したとき、ゴミにならない家ということで木造の家です。
私はこの家に家族と猫と13年間暮らしてきました。

2011年3月11日、その日まで、もうあの家に住めなくなるなんてこれっぽっちも思っていませんでした。
停電して水が出なくなってそれでさえ混乱していたのに、福島第1原発が爆発したと知らされました。
その時の私は原発がどんな物なのかわかりませんでした。
無知でした。いつから原発や放射能について理解し始めたのかわかりません。
爆発したその次の日、13日の事なんですけど、山形の知り合いの家に避難しました。
荷物はほとんど持たず、車で通常の倍以上の時間をかけてたどり着きました。
しばらくそこに滞在させてもらいましたが、話が進み、家の前に雪がまだ1メートル以上もある山奥の別荘を貸してもらう事になりました。
そこで4歳離れた兄と二人だけの生活が始まりました。

仕事のある母は週末だけ通ってくる状況で、学校にも行きませんでした。
最初は新しい生活に新鮮さ感じていましたが、すぐに思いました。
なんで家に帰れないのか、福島はどうなっているのか、そんな疑問と兄と二人だけの生活にストレスばかりが溜まって行きました。
そのせいで何も悪くない兄に八つ当たりをしていたりしました。
あの時私は何も知りませんでした。
知ろうとしていなかったが故に何も考える事ができませんでした。
津波で家が流されたり、避難区域になり避難生活を強いられた人達に比べれば、家も無事だし好きなこともできたし、何も不自由なく暮らしていたのに、無駄な生活を送ってきました。

夏の終わりごろ迄、別荘で生活しその後、山形県米沢市という所の雇用促進住宅に住み始めました。
生活するには十分すぎる家電を支援してもらいました。そのころから福島に時々遊びに戻っていました。
放射能なんて知らない、何も危なくない、友達と遊びたい…。
転校した学校にも行かず現実から目をそらし続けました。
そんな私に、私の母は「元の学校に戻る?」と聞いてきました。
私は戻る選択をしました。
今思えば、母は私を守るために避難させたにも関わらず、福島に戻るという選択肢を与えてくれたのです。
私は母にどれほどの負担を与えてしまったのかわかりません。

中学3年生になる時、元の学校に戻り、部活も復帰しました。
ただ楽しくあの時は過ごしていました。
でも、原発とか放射能、セシウム、被曝…、その時母がやっていた活動の話や、活動でかけている電話の内容を聞く度に私はやりきれない思いを抱えました。
自然農や自給自足の話をしている時の母の方が私は好きでした。
いつも、「どうして?」という疑問ばかり出てきて、でもそれらを否定して、自分は関係ないと思い込ませていました。

高校は基督教独立学園(*山形県小国町)というと所に入学して、初めて思い知らされました。
私が3.11で経験したことは、伝えようとしなければ誰も知ろうとしてくれないんだって、当事者でなければ問題に対して関心をもとうとしないんだと。

私も自分のことでいっぱいで、沖縄の米軍基地問題や、TPP、その他にも色んな問題を、私は知ろうとしていませんでした。
それと同じ事で、どこで何が起こっているのか伝える人がいなければ何も始まらないんだということに気づきました。
それと同時に自分は無力なんだと気づかされました。
何もできない自分に、自分が嫌いになった事もあります。
福島は何もないつまらない所かもしれないけど、それでも、私の大好きな場所を与えてくれた所です。
でも今は住んではいけない場所。
将来私に子供が出来た時、後悔したくありません。
何の罪もない子供に放射能の健康被害といういらない苦労をさせたくありません。
だから今、私が健康な体でなければなりません。福島に住む理由は何一つありません。

私は2年間、目の前に向き合わなきゃいけない問題があるのに目を反らしてきました。
その逃げていた事はとっても重い罪だと思います。
それに気づいた私は、私の子ども、2世3世を守る事で罪を償っていくつもりです。
それに合わせて、無力な私だけど、「3.11」で経験した事と、私が色んな人から聞いて考えてきた事を話すくらいは出来るのではないかと思いました。
それで、どうやって伝えていくか考えた時、母の講演先で「少しだけ話す場を設けてもらえないか」と母に話した所、今回この場を用意してもらいました。
本当にありがとうございます。

私は、独立学園に入学してから初めて、去年の夏休み、やまなみ農場を訪れました。
母からの手紙で片付けていると知らされていましたが、実際見てみると、あんなに散らかっていた家に何にも物が無くなっていました。
衝撃をうけました。小さい頃から、やまなみ農場を継ぎたいと思っていたのに、その夢は叶いません。家の前の畑も家の下の田んぼも荒れた放題です。
きっとそこにはたくさんの放射能があるんだな。いつになったら消えるんだろう。
私は泣く事しかできませんでした。
こうなったのは誰のせいでもないから、誰かを責める事はできません。
自分を責める事もできませんでした。
この出来事は起こらなければいけなかったんだって自分に思い込ませました。
私は泣きながら飼っていた猫を探しました。
そうしたら鳴き声が聞こえて、近寄ってきてくれたんですけど、触れようと思って手を伸ばしたら、警戒して距離を置かれてしまいました。
でも、私はやっぱり泣きながら、人間が住んではいけない所にこんな小さい動物を置いて行くことに、胸が苦しくなりました。
「ごめんね、一緒に安全なところに連れて行けなくて」私は結局、謝る事しかできませんでした。
連れていけないけど、せめて精一杯生きて欲しいなと思いました。

今福島に、子どもも大人もお年寄りも、沢山の生き物も住んでいます。
危険だと分かっていながら。最悪、それすら分からないまま暮らしています。
福島県民でさえ意識の薄い人が沢山います。
それに秘密保護法が制定されれば、情報が遮られ、私達は知る事が出来なくなる可能性があると聞いて、また無力さを感じました。
でもそれでも、考えていくこと、伝えることをあきらめたらダメなんだなって、お母さんに教わりました。
周りがどうであれ、自分の意見を貫こう。
それが無理でも、大切なやまなみ農場で暮らした事実だけは消さないようにしよう。
そして子供の健康を守ろう、私は私の役目を果たそうと思いました。

最後になりますが、こんな私の言葉に耳を傾けてくださって、本当にそれだけで幸せです。ありがとうございました。
私のような人もいるんだなと、心の奥底でもいいので覚えておいてください。

私達の上から黒い雨が降ってきます。
今は傘という不確かなもので凌いでいるだけです。
それすらもない人もいます。
いつか黒い雨が虹色に輝いて、太陽に照らされ、青い青い澄み渡る大空が世界に広がりますように。

以上です。
ありがとうございました。
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